なぜミスコンは開催されるべきでないか


女性(女性であろうとする人や女性と見なされる人:以下「女性」とする)は、日常的に、男性社会に都合のいい存在であるかどうかによって品評され、順位づけられています。その評価基準の一つが「外貌の美しさ」です。(たとえば、テレビ、広告、小説、漫画などの大衆文化や商品には、「女性は若く美しくありつづけなければいけない」というメッセージが氾濫しています。)

 ミスコンは、女性をその外貌や「内面」によって品評し、それを見世物として楽しむイベントです。そして、女性の外貌や「内面」が常に品評の視線にさらされるという社会の在り方を肯定し、再生産するものです。そのあり方は、何かフラットで客観的な「美の基準」を持ちだして行われるようなものではありえず、既存のジェンダー規範を忠実になぞり、かつ再生産するものとしてあります。その性差別性あるいは不当性は、たとえ「ミスターコン」を同時に開催したとしても、到底拭えるものではありません。

また、ほんらい多様でありうるはずの「美しさ」に関して、それを一律の価値観のもとに優劣をつけ、またそこに当てはまらないものを排除するというミスコンのゲームにおいては、「女性」だけでなく、セクシャルマイノリティ、エスニックマイノリティ、障害者など、さまざまな人々の多様性が否定され、そのことは非常に差別的であり、不当です。

ミスコンを肯定する、あるいはそれをなんとも思わない人たちは、「そんなものは世の中にいくらでもある」と言うかもしれませんが、私たちはそうした(ミスコンに限らない)社会の様々な差別的な営みに反対していますし、そうしたものの象徴としてのミスコンに対しても異議を唱え、抗議しています。

また、ミスコンは、主催者・観客・出演者だけに閉じているものではなく、全員強制参加型のイベントです。たとえば今回の「Ms.Hokkaido University Contest」では、北大に居るすべての人が分母にとられ、その中から一番美しい「女子学生」を決めるという構造になっています。応募条件は「北海道大学女子学生(学部生)」ですから、すべての北大在籍者から、まず男性を除外し、つぎに教員・院生・職員等々を除外し、最後に余った人たちのなかで、一番を決めようというイベントであるわけです。ですから、このミスコンにおける審査の対象者は、エントリーした「女子学生」だけではありません。エントリーしなかった「女子学生」や、応募条件によって除外されている人々も「ミス北大」にまったくの無関係ではいられません。

そもそも、ミスコンは「一番美しい未婚女性(ミス)を決めてやる」という性質のものです。ですからミスコンは、「未婚女性は他者(多くは男性)に美しいと評価されることが大切だ」という性差別的価値規範を《全ての人に向けて》発信するものであり、その開催を決定し公開周知するということを含めて不当です。