人民新聞「時評 短評 私の直言」掲載記事

当会メンバーの「突入」が何かおそろしい脅威のように表象される一方で、主催側による過剰警備の暴行は、「よくやった」「おつかれさまでした」「変な奴らに絡まれて大変でしたね」などと称賛され、ねぎらわれてきました。(本来そこにあるはずの)対立や緊張関係を顕在化するような抗議行動がふだんそれほど無い環境では、告発や抗議をする者が、「平穏」な日々に波風を立てる者として、もっといえば「暴力的」な者として認識されるのでしょう。しかし、当会が「あなたの知らない暴力、見つめてみませんか?」というフレーズで呼びかけたように、当たり前にミスコンが企画され、ほぼ毎回何のトラブルも滞りもなく完遂されるということ自体が、女性を容姿で評価して皆で眺めるのは当然のことだという暗黙の了解に下支えされた「暴力」です。

 

2016年6月25日 人民新聞 No.1586 の「時評 短評 私の直言」コーナーにて、ミスコン当日の暴行事件とそれまでの抗議の経緯について書かれた記事が掲載されました。 このたび投稿者の方に許可をいただき、記事の画像とあわせて全文の引用をここに掲載いたします。

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北大・ミスコン抗議者への暴行事件

加害と被害を逆転させる構造的暴力

 (大学院生・シングルマザー 松岡千紘)

 

6月2~5日、北海道大学で開催されたミスコンに反対する学生らによる抗議行動において、北大祭事務局のメンバーが抗議者へ暴行を働いた事件が話題になった(twitterより)。この件について、ミスコンという企画が含む性差別性はもとより、差別や抑圧へ反対する側の「抗議」が、加害側の「自衛」的暴力にさらされ、かつその一連の出来事の物語の中で「加害」と「被害」が逆転する現象に焦点を当てて考えてみる。

 事実の経緯について非常にざっくりとまとめてみる。ミスコンに抗議を行う側は「女性が絶えず美醜によって順位づけられる日常」の延長線上にあるミスコン開催を阻止する目的で抗議を行っていた。抗議を受けた当該企画の主催者は、「ジェンダーへの配慮等が欠けていたのは事実」であると述べつつ、しかしながら「企画運営の準備の都合上」、今年度の中止は出来ないと返答。このような屁理屈でミスコンを強行的に開催しようとした主催者らに対し、抗議者側はプラカや拡声器をもってステージに突入する手段をとった。ところが、事務局スタッフは、彼女/彼らに対しヘッドロック、押し倒す、首を絞めるなどの過剰な暴力で応答(メンバーの一人はステージ上から、頭から地面に落とされる)した。

 これについて。北大祭事務局側はHPで次のように説明した。長くなるが引用する。「ミスコンは6月4日(土)20時より開催され、企画開始直後、企画運営を妨げる者が現れました。…北大祭スタッフではこれらの妨害行為を止めるなどの対応を行いました。その際、北大祭スタッフが指を噛まれた、髪を引っ張られたなどの行為を受けたことが報告されています。一方で、企画運営を妨げる者に対して北大祭スタッフ1名が首をつかむといったことを行ったという申告もありました。…再度このような事態が生じることがないよう、ステージの警備体制の在り方についてなど企画運営方法について再考し、努力してまいる所存です」。

 まず、この文面からは妨害行為/抗議行動を行った側が不当な行為をしたという印象を与えられる。しかし、先に説明したように、事実の経緯としてはまず抗議者側からの企画の問題性の指摘が行われ、それに対して極めて不誠実な対応がなされたことから、今回の企画阻止行動があった。突然どこからともなく企画を妨害する謎の集団が現れたわけではない。

 こうした構造的暴力の一端を担う行為を免責/隠ぺいし、結果現れた抗議の声をあたかも迷惑行為であり「加害」であるような物語は、「加害」と「被害」を逆転させる装置となる。いうまでもなく、こうした「加害」と「被害」の逆転はあちこちで繰り広げられている。過度に一般化することには慎重にならざるを得ないことは承知しつつも、ここではあえて差別への抗議等に関し、その現象が顕著になると指摘したい。時に性暴力の加害者が、しばしば自分こそが真の被害者であると主張するように。これ以上、構造的暴力による痛みに忍従する必要がないと気づいた人の行為か、それとも自分を守るための無我夢中の行為であったのか、いずれにせよ、結果として現れた抗議を「暴力」であり「加害」であると批判する風潮は蔓延していると感じる。

 「暴力」に注視を促し、問題の「構造」を隠ぺいする権力は、往々にして、構造的暴力が痛くもかゆくもない人々にすんなりと受け入れられていく。同時に、その問題を当事者間の「個人的ないざこざ」であるとか、「痴話げんかの末に…」といった言説のオブラートで包んでいく。「このくそったれ!!」思うが、粘り強く構造の暴露を進めていくしかないのだろうか。少なくとも私は、こうした形で怒りの力を不当に奪われている人たちの立場にできるかぎり連帯したい。

 

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