シンデレラとミスコン

 今は精神的にキツいから決して読まないが、数年前、2ch系まとめブログのウォッチ(監視)を日課にしていた。2ch系まとめブログは、性差別や人種差別をはじめとしたさまざまな差別的言辞が、正論・快刀乱麻であるかのように演出される場所(それは何処にでもある)の一つである。

 私は、(首都圏の)ミス・キャンパスに出場した人や、その大学の女子学生ぜんたいに関するイメージなどが、そこでどのように語られ扱われているのかを、苦々しい思いで見ていた。そこでは、「美人」が「賞賛」されているというよりむしろ、誹謗中傷にさらされていたのだ。思い出したくもないので、具体例は書かない。わかるひとにはわかると思うから。

(北大ミスコン+twitterの場合はこんな感じ→https://twitter.com/missconwwww/status/733988998972997632

 

 まず、叩かれる根本的な原因は、かの女たちには無い。一切無い。むしろ、どんな見かけであろうと、どんな内面を持とうと、どんな状態にあろうと、なにをしようとどこにいようと、それが「女」であるとみるや叩くひとびとというのが存在するからである。

 かれらにとっては、「女」がけしからん理由など、すぐ見つけることができる。おそらく、なんでもいいのだ。そこに合理性は求められない。
かわいいからけしからん、醜いからけしからん、妊娠しているからけしからん、妊娠しないからけしからん。
モテるからけしからん、モテないからけしからん、賢いから、バカだから、黙るから、怒るから、泣くから、笑うから、けしからん。
・・・・・・
キリがない!

 

 こうした女性蔑視の一形態として、ミスコン出場者にたいするバッシングがある。
そして、このことと、ミスコンを企画することや大っぴらに「可愛い女の子」を鑑賞し評価をすることとは、とある点で共通している。
かの女たちを並べて鑑賞し評価を下すことが、自分たちには当然に許されているという感覚だ。その誤った感覚を肯定し支えるものとして、メディア、出版物…etcがあるのだが、ミスコンというイベントもそのひとつだ。

 

 ミスコンは、「だれそれが可愛い」という話だけでは完結しない。
「だれそれが可愛い」という話に加えて、「だれそれが可愛くない」という話と、その話をする自分たちは決して批判されない、という3つの話がセットになって、ようやく完成する物語である。

 

 そういえば楡陵祭実行委員会は、ミスコン出場者募集のチラシや公式アカウントのアイコンに、「シンデレラ」のモチーフを使った。「シンデレラ」は、要はミスコンの物語だ。


 あのミスコンの物語では、シンデレラ自身は「内面的な魅力」があり(それなりに着飾れば「美貌」であり)、継母や異母姉達は外貌も内面も醜いとされている。このように、だれが「悪女」でだれが「聖女」かという話にはなるのに、一方、王子様は王子様であるという理由で決して「てめえ何様だよ」とは問われないし、読者もまた問われない。


 「聖女」を選別するための評価基準=ガラスの靴は、多くの「悪女」のつま先を傷つけ、かの女たちが受ける嘲笑や罵倒(ex.「身の程をわきまえろ!」)を正当化した。
そして、主人公の人生譚は、王子様(何様だよ)との結婚を機に、あっさりと打ち切られてしまう。「おめでとう!あなたがナンバーワン!もういいでしょこれで!はい解散!」

 

本当にひどい、現実みたいな話だ。

これを「夢みたいな話」として聞かされて育つ身になってみろよ。

夢見ることすら許されないのが「女」である。

 

もし実行委員会がこのことを知りながらシンデレラ・モチーフを広報に採用したのなら、けっこうたいした悪者だと思う。しかし、実行委員会の一連の言動から察するに、そこまでの悪いことを考えている自覚がまったく見えない。脱力してしまう。なんといったって、「来場者のニーズに応えること」しかしていないと言うのだから。


荘津 巴